コ ラ ム


◆うふちゅん人さん

この度、うふちゅん人さんから、相互リンクのお申し出をいただき、ありがたくお受けすることとなりました。
すでに氏のブログ「うふちゅん徒然記」には、弊HPと大石ってこんな奴という御紹介をいただいております。
ただ、あまりにもよく書かれすぎていて、このままではJAROに訴えられてしまうよ!?という心配がないでもありません。

そこで、正誤表です!

●僕にとって武術では「先輩」でありますし
→たまたま現在所属している団体に私の方が早くいたというだけです。この団体に入会以前から、うふちゅうん人さんは多くの武道に精通しておられ、私と比較することすらおこがましいです。きっと彼がその気になったら、私なんか5秒で殺されてしまうでしょう。

●術数(今風でいえば占い)ではさまざまなご教示をうけ、
→すみません、中年オタクの話に無理やりつきあわせてしまっています。

●また鑑定していただいた「先生」であります。
→これは確かにお仕事として引き受けさせていただきました。理解力が高く応用力の高い方の鑑定は本当に楽でした。

●またその性格や雰囲気からいろんなことを話せる「年上のお兄さん」的な存在でもあり
→、、、、、おじさんです。

とまあ、こんな感じです。それにしても、今年こそ、うふちゅうん人さんの所へ遊びに行きたいなあ。

◆一日為師、終生為父

昨日、鮑先生の通夜に参列させていただいた。
奇しくも、私にとってもう一人の恩人である銭天牛先生のときと同じ斎場であった。しかも、ちょうど10年前、やはり年が明けてすぐであった。
鮑先生は私にとっては終生の大恩人であり、範とすべき大先達でもあった。
いつか先生より受けた過分な御恩に報いられる日が来ると精進してきたつもりだったが、何の御恩返しもできないうちに先生は旅立たれてしまった。
まったくもって不甲斐ない不肖の輩である。
先生からは多くのことを教えていただいたが、決して師弟という関係になろうとはなさらなかった。(もちろん、私ごときでは先生の弟子になる資格もないのだが)

初対面の時にも、どこの馬の骨ともわからない私に対して丁重に対応していただき、それ以降、御自宅に出入りを許されるようになってからは多くの客人と同席する機会が増えていった。その際、きまって「僕の友人の大石ちゃんです。」と御紹介いただき、恐縮してしまうのが常であった。

先生は、よい意味で大陸的というのだろうか、人のもてなしの大変御上手な方で、仕事の邪魔になるから今日は早めに辞去しようと思って訪問させていただいても、あまりの居心地の良さに徹夜して翌朝(昼?)帰るというのが恒例のパターンになってしまった。その間、よく食べ、呑み、そして語っていただいた。文字通り一晩中語っても尽きることのない占術の話題、普通男同士が酒の席でしゃべり続ければ、話は下に落ちるのが常だが、本当に一晩中、占いの話しかしなかった。

いくら早めにお邪魔しても、結局帰りは夜明け以降だから、まさしく黎明の館だと笑いあったのも懐かしい思い出である。
初めて先生のお宅に伺ったのが平成癸酉の年、あれから17年、あっという間であった。

通夜からの帰り道、卜筮星相の学を生業とするということを改めて考えながら歩いていた。私はどうなりたいのだろう?私は何をしたらいいのだろう?自問自答しながら一人ポツポツと歩いていた。

◆エビスビール

ビール、わりと好きな方かもしれない。
昔は全然だめでむしろ嫌いだったのに、いつの間にか好きになってきて、今は「まず、中生!」などと言っている。
で、ずっと昔から疑問だったのがエビスビール。
エビスって恵比寿で、「恵」を旧かな表記したのが「ゑ」だから、カタカナで書けば「ヱビス」
問題はそのローマ字綴りなんだけど、明治23年の発売当時から「YEBISU」となっている。
さてさて、「ゑ」は「YE」でしょうか?
「YE」と書くからには、や行え段の「え」ということなのでしょうが、残念ながら「ゑ」は、わ行え段の「ゑ」です。
意外に理解していない人が多いけど、や行の「い」と「え」は、このようにあ行と全く同じなのだけれど、わ行のい段は「ゐ・ヰ」え段は「ゑ・ヱ」となっています。
もちろん、お段は「を・ヲ」なのは御存じのとおり。
ちなみに魚の鰹はかつて「カツヲ」と書かれていたので、昔のサザエさんでは、あのカツオ君が小学生の名札をつけているのだけれど「カツヲ」となっています。
それはともかく、エビスビールの件は、どうなっているのでしょうか?

◆JAL

いや、別にわかってもいないのに時事ネタを解説してエラそうな顔をしようということではないのですよ。

もうあちこちで言われているようだけど、あのロゴマーク、そう、「The Arc of the Sun(太陽のアーク)」てヤツ、まずかったんじゃないのかな?ということ。
世間で言われているのは、右肩から袈裟切りにバッサリがまずいというレベルだろうけど、そこは占い師、ちょっと違う。
あのマークを九星の定位盤に見立てると、右上の坤宮から左下の艮宮にかけて曲線が走っているように見えます。
あのロゴは2002年の日本航空と日本エアシステムの経営統合時に制定され、2004年以降、機体塗装や機内搭載品などを含めたすべてのビジュアルイメージが統一されたらしい。

全面的に統一使用された2004年で考えると、この年は甲申五黄の年、歳君(年の12支)である申の位置は右上の坤宮、歳破の寅は左下の艮宮。つまり、スタートの年の場所である右上から線が延びて、左下の艮宮(丑と寅を表す)で終わっている。
2010年1月は丑の年、丑の月というダブルの丑なのです。
理屈だけからいえば寅の年、寅の月の可能性もあったけれど、それは2010年2月のこと。どのみち、この1,2月で終わりということでした。

さらにちなみに、昨年の2009年、占い上ではまだ2009年度なんで今年なんですが日食がありました。すご〜く単純に言って太陽が蝕まれたわけだから、占星術的に太陽の象徴するものは蝕まれたわけです。

いろいろと考えられますが、アルファベットでいけばAとJとSが太陽の象徴です。
A首相(当時)の率いたJ民党は大敗しましたね。
JALも3文字の内、なるほど、2つ蝕まれていますね。これは痛い。
いや、待てよ。
でもJAは無事ですよね?
妙ですね。この辺、どうなんでしょ?

何はともあれ、毎年丑月から寅月への変わり目は節分と立春で大きな気の変化があると考えられるのですが、今年の変化は12年に一度の大変化です。
まだまだ何かありそうなので、脛に傷無き無辜の民は巨悪の没落を楽しみに待ちましょう。(あっ、これはJALが巨悪などと言っているのではないから誤解の無きように。これから出てくるのが楽しみということですからね)

◆声だけの仕事

昨年は、ずいぶんとラジオのお仕事をさせていただいた。
思いつくままに、、、

『スクール9』では
なんといっても、まず、サンドウィッチマンさん
2回もお邪魔させていただき、ありがとうございました。
大盛り上がり大会で楽しませていただきました。
同じく、ザ・パンチのお二人
浜崎さんの執拗な食い下がりに笑わせていただきました。
さらにダイノジのお二人
大谷さんの大地さんへの鋭い追及!
健康診断しましたか?

『OH! HAPPY MORNING』では
井門さん、御影さん
オンエア後にもわざわざ遊びに来ていただいたり、なぜかオンエア以外の日にも局で顔を合わせたりして。
ブログを拝見すると飲み会も楽しそうで、一度参加させてくださいませ。

『Sunday In The Park』では
ナラヨシタカさん、蒼井里紗さん
カッコいいお二人でしたね〜!
なんとなく偏見でナラさんは「占いなんか、けっ!」て言うタイプかと思って行ったら、とても真剣に話を聞いてくださって、感謝感謝です。

『Oh! JaMa』では
時東ぁみさん、山本昇さん
わざわざ事務所まで来ていただき、ありがとうございました。
今までで一番楽しいロケと言っていただき、大変光栄でした。

もっとも最近では『プラトン』
渡部建さん
いや、パーソナリティやナビゲーターをやっている方は、みなさん頭の回転が速いのですが、渡部さんは一番すごかったですね。人の話をうまく拾ってまわしてくれる。
同日ゲストの辛酸なめ子さん、すみません、調子に乗って私一人で喋りまくり、ほとんど発言できませんでしたね。謹んでお詫び申し上げます。

基本的に、お笑い芸人さん大好きです。
今年はどんな仕事で絡めるでしょうか?

◆店内のヒーロー

先日、占星術の講座の中で、恒星天、獣帯、惑星、室という天地の相関関係の話をしていて、金星の話になった。西洋ではアフロディーテ(ヴィーナス)であり、イシュタルであるけれど、中国では太白だし、仏教内では明星天子として神格化されているというように話が広がり、暁の明星を見て悟りを開いたお釈迦さんや、結願の日に明星が口に飛び込んで求聞持法を成就した空海の話にまで及ぶ。

その時、頭脳開発の件でふと思い出したことがあったので、さらに話の脱線が続く。
ブレーン・パターンである。これはイギリス人トニー・ブザンの考案した画期的ノート作りである。
というと、「それはブレーン・パターンじゃなくマインド・マップだろ!という揚げ足取りが必ず出る。

最近はそういうらしいね。

私が初めてこのメソッドを見たのが1978年の『99パーセントへの挑戦』(ブリタニカ出版)という本だった。次いで1980年『脳の社会学』(TBSブリタニカ)という本も出た。
この時点では、ブレーン・パターン、マインド・パターンという言葉は出てきても、マインドマップという単語はまだ登場してこなかった。

この方法を覚えたおかげで、どんな長い講演を頼まれてもマップ一枚持っていれば時間に応じて長くも短くも話をまとめられるし、どれだけ脱線しても本筋を見失うことなく必要に応じてすぐメインテーマに戻れる。
逆にどれだけ長い講演を聞いていても、この方法でメモを取っておけば、後で思い出す必要が出てきた際に、ほぼそのままに復元できる。

非常に重宝な方法である。

味をしめて、その後もブザンの本を探していたのだが、東京図書から「USE YOUR HEAD」の翻訳が出ているらしいということが分かった。今と違ってパソコンで一発検索などできない時代だから、一冊の本を探すのにも苦労したもんだ。

喜び勇んで大きめの本屋に行き、そのあたりの棚を探すが見当たらない。
店員さんに、こういう本を探しているのだがと話すと、少々お待ちくださいとのこと。どうやら奥の倉庫を探してきてくれるらしい。

しばらく立ち読みをしていると、先程の店員さんが何やら大きな声で店内に叫んでいる。
「頭の良くなる本をお探しのお客様〜!お探しの本が見つかりました〜!」
どうやら俺のことを探しているらしい。

しかし、言うに事欠いて頭の良くなる本を探している奴とは、どういうものいいじゃい?
と思って、好奇の視線を体いっぱいに浴びながら、いささか憤慨しつつレジまでいくと、「こちらになります。」と一冊の本。

おおっ!

店員さん、スマン!あんたは悪くない!
東京図書『頭が良くなる本』ブザン著・佐藤訳

それにしても、、、

東京図書さん!(あるいは訳者の佐藤さん!)この邦題、もうちょっと、何とかならなかったんですか?
ちなみに、この本今もあるのかなと思って調べてみたら改訂新版が出てました。でも、、、
タイトルはそのままでした。

◆居酒屋で

先日、居酒屋で某新聞社の方と飲んでいた時(仕事よ、シ、ゴ、ト!)
生年月日は不明なんですがということで、その方の知人の名前だけを示された。
これだけで、どの程度わかるもんなんでしょうかというご質問。
こういうの、いいですねえ。
ある特定の占術に限定して、その占術の神髄とは何ぞやという議論はとても面白いし、よくやるのだけれど、逆にアウトプットの立場から、このデータだけで、あんた(占者)はどう工夫する?という質問。
これまた別の意味で、占者の見識や実力が問われる問題ですな。
その時は既に結構呑んでいたので(しつこいようですが、仕事よ、シ、ゴ、ト!)、かえって要らぬ先入観や常識の縛りが緩んでいたのでよかったのでしょう。
その方も多少は占術について知っている人だったので、オーソドックスな画数だけの姓名判断を秘伝的に解釈してやろうと思い、秘伝○○流を使いました。
名前の主の性格や運勢などといったオーソドックス判断から始めると、口にこそ出さないものの、案の定、な〜ンだ、やっぱりその程度かという顔をされる。
こっからが本番、流年と流月を細かく話す。今年の9月に親と兄弟を相次いで亡くしていること。
6年前の11月に女性をうまく利用して会社で出世したことなどなど。
名前を出したこの方、唖然として声もなし。(こちらとしては、してやったり) しかし、そこはジャーナリスト、次なる真実の追究を始める。
この方の奥さんのことは、わかりますか?
何を?
奥さんの名前を出さずに、亭主の名前から奥さんを読めだと!?
上等じゃないか、やってやるよ。
で、性格などなど。
すると、さらに追究。
性格などはまさにその通りで、実際お仕事をされているのですが、この奥さんの仕事はわかりますか?
う〜む、追究の手が緩まんな〜。
そうですねえ、ネットワーク系のビジネスのような形で、自分が直接店頭に出ることなく、多くの人間を相手にモノを売ったりするかんじでしょうかねえ。
しばし、沈黙(やっべ〜、はずしちまったか?)
いや、恐れ入りました。この人はインターネットを使って外国の家具の個人輸入をしているのです。
よしよし、そうでなくちゃあね。さあ、呑みましょう。
この判断には名前以外の別の占術も入っているんですか?(まだ聞くか?)
いえ、名前の画数だけです。○○○にいらっしゃる○○先生の秘伝です。
さあさあ、乾杯しましょう(落ち着いて呑ませろ!)となり、やっと解放となる。

※断わっておくがこれは実占ではない。少し前に書いた、遊び半分で占いなどやるものではないという内容と矛盾するものではなく、むしろ日常で自分の肩を暖めておくためのトレーニングに当たるものである。

◆引用師

タイトルは、「陰陽師」の誤植ではありません。
占い界に蔓延する理論派の先生、皆さま、とても筋の通った素晴らしいことをおっしゃる。
いつ読んでも、惚れぼれ、感心。一点の非の打ちどころもございません。
ただ、ねえ、、、
それが自分の言葉ならば、という前提つきなんですがねえ、、、
もろもろの雑誌のバックナンバー、入手しづらくなった現代だから、誰も読んじゃいねえだろうなんて思ったら大間違い。
見てるヤツは見てるし、知ってるヤツは知っている。
新井白蛾が、こっぴどい恥をかいた逸話、知らないわけはないんだけどなあ。
何だろう、この不快感は?

◆場内アナウンス

その1
会場にお集まりの皆様にご案内申し上げます。
本日、講演予定の「どんな病気でも一発で治せる絶対健康法講座」は、講師新型インフルエンザ罹患のため、中止とさせていただきます。

その2
では、開会に先立ちまして、視力回復協会会長から一言ご挨拶をいただきます。
「ただ今、御紹介にあずかりました会長でございます。私、あがり症なもので、緊張のあまり皆様を前にしてご挨拶ができなくなるようではと考えまして原稿を書いてまいりました。え〜と、メガネ、メガネは、っと」

その3
占い師、飲み屋にて
「人生、一寸先は闇だな〜!」

◆恐怖体験 私は天狗を見た!

天狗って知ってますか?
山奥に住んでいて、赤い顔をして、長い鼻をもった山伏装束の存在。
日本人なら、ほとんどの人がイメージできると思います。

一度、中国から来た男性を居酒屋の「天狗」に連れて行ったら、その看板を見て非常に不思議そうにしていたのが印象的でした。そういえば中国には天狗っていないよなあ。と考えていたのですが、よーく考えてみると、ただ天狗という存在を知らないというだけではなく、文字どおりに解釈して天の狗(犬)と読んだらしく、天に住む日本の犬の妖怪のようなものをイメージしたらしいのでした。

そして、その割には看板やメニューに書いてある絵が、赤い顔をした鼻の長い奴で犬というより人間みたいに見えるのが不思議だったようです。

で、天狗なのですが、実は天狗とはそういった伝説の存在ではなく実在するのです。

だって、つい最近見たばっかりだもん!

しかも通説とはかなり異なっていて、鼻はそんなに長くなく極めて普通か、むしろ低めかも。
むしろ特徴的なのは、目と耳でした。どちらも、選択制の知覚障害があるらしく、反応が通常の人間とは異なります。

まず視覚。
他人のことは一切、眼中にありません。礼儀、挨拶という言葉をもともと知らないか、人生のある時期に置き忘れてきたようです。また、都合の悪い事態にはすべて目をつぶるという特徴を持っています。さらに他人とのミーティング中に平気でスポーツ新聞を読むという荒行にチャレンジしている場合もあります。

次に聴覚。
もちろん、人の言うことは一切聞きません。その割には、不思議な存在からの声はよく聞こえているようで、我々常人にはよくわからない論理で行動して、我々を驚かせてくれます。もちろん、急激な方向転換はお手の物です。
あるいは、外部から聞こえてくる声は、すべて賛辞か妬み発言に変換できる機能を持っているとも考えられます。

今回、こういった珍しい存在を間近で目撃するという貴重な体験を得たので、引き続き観察レポートを続行したいと思っています。
ただ、面白がって続けていると一生かかってしまうかもしれないので、一応の線引きをしておきたいと思います。

そうだな、天狗の鼻がへし折られ、地に落ちるまでとしておきましょう。

◆占機の大事

いまさら何言ってんだと言われそうだが、占うという行為は実に微妙不可思議なものだ。

占いの論理と手法を習得すれば、あっぱれ占いに関しては、オールマイティになれるはずだが、実際に占いの現場に立ってみるとそうはいかないということがよくわかる。

それが占機という関門だ。

「問わざれば語らず」とは古人の教えだが、現場を体験すればするほど、この言葉が身にしみる。

ためしに一占とか、挨拶代りに腕前披露などということは、眞の占者が行ってはならない占事である。

問う人間のギリギリの状況と、占う人間の真剣な占断がコラボすることで、初めて占事という場が形成される。

こういうものの言い方が、営業上は不利であることは重々承知であるが、おためし占いなどやるものではない。遊びの占いは、その場を和ませるための余興と完全に割り切らない限り、百害あって一利なしである。

これは切り立った占的を扱う占卜では尤もなことと考えられるが、命術は一般に学問的、体系的であるので占機における真剣性など関係ないように思われる。

いつ、どこで占ったって元データが同じなら命式や行運が変わるわけではなし、と私も昔は思っていた。だから命は術ではなく命学なのだなどと考えもした。

今、私はかつての不明を恥じる。

違うのである。

講義や理屈の説明のための例題解説などではなく、占事に立ち会ってみればすぐわかる。

逆に、これが分かっていないということは、たとえ実占を何十年やっていようとも、ひとつとしてまともな占事をしたことがない存在だといえる。

ただし、占者が常にウォーミングアップしておくという意味での、個人的おためし占いは逆に常々やっておかなくてはならない必須トレーニングである。

この両者の違いを突き詰めることから占事というものの本質が見えてくる。

うらない(あえて、漢字ではなくひらがなで書く)とは、ある意味恐ろしい世界である。

◆陰陽講座

何をいまさらという情報だが、知らない人もいるかもしれないのでここに記載しておく。我が畏友・高橋圭也師が、吉祥寺のカイロンで陰陽道の講座を開講されることとなった。

高橋師といえば、まさしく、笑う子は泣きだし泣く子も黙るという現代の陰陽道界の鬼才である。

夢枕獏原作、野村萬斎主演の映画「陰陽師I・II」の陰陽道儀式指導をはじめとして、映画、ドラマ等を通じて陰陽道の正しい姿を現代に伝えようとするなど多岐にわたる活躍をされている。

私が、お付き合いをさせていただいていて、特に感じるのは師の愚直なまでの真面目さである。陰陽道という伝統的な術の世界では、ある意味当然なのであろうが、基本を徹底的に大事にする姿勢、私のようないい加減なものとは違う緻密な考察、その博覧強記なる知識量、そして何よりも魅力的なのは虚飾を好まないそのシャイさにある。

この10年、師はほとんど公の場に顔を出さなかった。
その師を口説き落として、講座の席に引っ張り出したカイロンも、ある意味すごいといえよう。
いずれにせよ、今回の講座は貴重なものである。

半年継続の通常講座は10月からだが、その前のサービス講義ともいえるワンデイセミナーが9月5日に実施される。

「現代生活の中の陰陽五行」というタイトルで、まったくの素人のためには、いつも気付かずに過ごしている日常生活に隠された陰陽五行の痕跡という話。これだけでも十分おもしろいのだが、相当なプロでも、思わずウ〜ムとうなってしまう今回の講義の真価は、なんといっても高橋師の数多ある隠し玉の一つである董仲舒の陰陽論・五行論と災異論についての講義である。

陰陽五行を標榜するものならば、ぜひとも知っておかなくてはならない歴史、漢代の陰陽五行は、現在われわれが知っている陰陽五行とは全く違うものであったという事実。

これを知らずしては恥ずかしくてプロなどとは自称できないでしょう。
もちろん、高橋師から拒絶されなければ私も参加するつもりである。
高橋先生、私も行っていいですか?

◆趣味は読書などと軽々しく言っていいのかな?

ヘレーン・ハンフという女性がいた。1916年生まれのニューヨークっ子である。彼女は17歳の時に公立図書館で、ケンブリッジ大学教授のクイラー・クーチが文学部で行った講義の講義録を見つけた。
彼女は作家を目指していたので、文章術の本を探していたのだった。

喜んでその講義録を借りて帰った彼女であったが、自宅で読み始めて3ページ目でいきなり壁にぶち当たってしまう。
大学生相手のクイラー・クーチの講義は、聴衆がミルトンの叙事詩『失楽園』を読んでいることを前提に話が進められていたのだった。そして第3巻の「光明への祈求」の分析が展開されていた。
残念ながら彼女は『失楽園』を読んだことがなかった。

こんなときには「ダメだ、こりゃ!」といってなげだすのが、私をはじめとする凡人だが彼女は違った。
彼女は「ここでお休み」と言って、ひとまずこの講義録を読むのを中断した。
そして、『失楽園』を借りて読み始めたのであった。もちろん、本来の目的である講義録を理解するための読書である。

しかし、またまた壁にぶち当たる。どうやら『失楽園』を理解するには聖書の理解が必要らしいのである。ユダヤ教で育った彼女は、『失楽園』読書を中断し、聖書をじっくり読み始める。

そして自分なりに納得がいった時点で、『失楽園』に戻り、更に講義録に戻っていった。

このような無数の中断と他の本の読書を繰り返したのち(そのためにラテン語とギリシャ語を習ったり、シェークスピアの全戯曲を読破したり、経典外聖書の「エズドラス書」まで読んでいる。)実に11年の年月をかけて一冊の講義録を読み終えたのである。

本を読むって、こういうことだよね。

◆コミュニケーション

人に聞こえないような小さな声や不明瞭な発音でしゃべるヤツ。

悪筆、くせ字で全く読めないような字を書くヤツ。

こういう輩は他人さまとコミュニケーションを取ろうという意思のない連中である。

やれ個性だの自由だの言う前に、人様に分かる話し方書き方をするべきだ。

伝える気がないならグダグダ言うな!

◆学ぶ

現在、私は吉祥寺のカイロンという占いスクールで講座を持たせてもらっている。おかげさまでなかなか好評なようである。

現時点では、周易の講義と原典講読ということで『滴天髄』の重要ポイントの講義を行っている。

思い起こせばずいぶんと長い間、人様の前でしゃべる仕事を続けてきていることになるのだが、昔から、講義をしているあんたが一番楽しそうだとよく言われたものだ。

まことにもっともな話で、営業の世界ではセールスの一番のポイントは商品に惚れ込むことだといわれる。もちろん様々な営業テクニックはあるのだろうが、何よりも自分が紹介しようとしている商品そのものに価値を見出せなかったり、引け目を感じてしまうようでは説得力は全くないであろうし、売れさえすれば後は野となれ山となれという販売態度では、詐欺といわれてもしかたあるまい。

われわれ講師業の場合、商品は講義の内容そのものである。

講師自身が、話す内容に自信がなかったり、価値を見出せないようでは、聞いているほうもつまらないし、時間と金を無駄にしたという印象しか残らないであろう。

だから私は自分が面白いと思うものしか講義しないし、これは使えるということしか話さないわけだ。

この場合でも、講師自身の独りよがりで自分だけが面白がっているという危険もあるわけだが、そこは有料でかつ貴重な時間を割いて聞きに来る皆さんだからシビアな反応がある。

単発講座なら、クソ面白くもない内容でも、来てしまったのが運の尽きとあきらめる人もいるだろうが、連続講座なら歩留まり率に覿面に表れる。

それにしても今回の『滴天髄』、いつも以上に題材が面白い。

実は今まで、まとまった形での滴天髄講義というものを私はやったことがない。

いわば手持ちの駒の中でも、貴重な一手なのである。

今後もあまり公開するつもりはないので今回参加された方々は実にラッキーだと言える。

なぜ今回に限り、特別にこのような内容を公開するのかといえばそれはひとえにカイロンという占いスクールの真摯な運営姿勢に共感したからに違いない。

誰でも簡単にプロになれますと謳うスクールは多いが、現実の成果はいかがなものであろうか?

何よりも大事なことは、プロにはそう簡単になれません!ということだ。

雑誌を見れば、占いの広告が文字通り犇めいている。

世の中には、こんなに占い師がいるんだと呆れるくらい占い師が載っている。

もちろん、きちんとした占い師の方もいらっしゃるが、全体的にあまりいい評判を聞かない。この上さらに世間の占いスクールから粗製乱造された占い師が参入することで、ますます占い業界の評判を落としてくれるわけである。

カイロンの姿勢は、「プロとして通用するのはなかなか厳しいのだ」という前提に立っている。この本来なら当たり前のことがなかなか周知徹底されていないのが実情なのだ。

これはなにも占い師に限ったことではない。プロというからには、自分の専門分野に関しては、どんな言いがかりをつけられても即座に切って捨てられるくらいの見識や実力は必要だし、近接する他の領域との差異や連携についても詳しくなくてはならない。

その意味では、カイロンは一般の占い学校は出てみたものの、、、という人にこそふさわしいスクールかもしれない。

今まで、意志はあっても自分の周りに師がいない、書がない、学ぶ場がないという人にも、もちろんお勧めだ。

えっ、玄学舎はどうしたって?

もちろん、こちらこそが私の城だから、こちらはこちらで運営している。

ただ、玄学舎でなくては出来ないことをやろうと少々方向転換中である。

いくつかの考えがあるのだが、そのうちの一つに、やはり東京や関東近郊に住んでいる人は恵まれているということがある。

実際、カイロンや玄学舎がいくら良くったって、こちとら物理的に通えないぜという声はよく聞こえてくる。

昔の私なら、「本当にこの人を師と見込んだならば千里の道を遠しとせず馳せ参じるくらいでなければものを学ぶ資格などない!」と突っぱねたものだが、そこはそれ、老眼の兆候も出てきて、大石さん、最近はすっかり人間が丸くなりまして。

これも世のため、人のため、せっせと歩み寄り方を考えております。

ただし、これはすべて学生(この場合「がくせい」と読むより「がくしょう」と読んだほうが雰囲気が出る)の話、弟子ではない。

弟子というのは術の世界における疑似的ファミリー上の親子関係を指す言葉であり、父としての師父と子息としての弟子という関係にある。

師弟が父子の関係になぞらえられるわけである。

こちらは依然として、千里の道を、、、である。

まあ、こんなとこまで深入りするモノ好きはそういないだろうから多くの人には関係のない話ですな。

ということで、普通に占いを学びたい方には、ちょいと腹案がありますので暫しお待ちを。すぐにはお返事できませんがお問い合わせメールなどいただいておけば企画実現の際にご連絡いたします。

ただし、例によって住所氏名生年月日など書いてこないものは無条件削除ですのでご注意を。

◆干合を考える

『滴天髄』のなかに「天干」という章がある。書によっては「天干論」や「論天干」となっているものもある。

十干のそれぞれについて、32文字でその特徴を説いてある部分で、よく雑誌に載っているような生まれ日の干で個性を見るような場合の元ネタになっている部分である。

この中の丁の部分に注目すべきことが書いてある。

そのフレーズとは「合壬而忠」である。

漢文における「而」はほぼ英語における「,(カンマ)」であり、順接逆説の接続を示す。もちろん、省略されているが主語は丁であり、直訳で

「(丁は)壬と干合して忠となる。」となる。

ここで忠というのは、親に孝、君に忠という忠である。

つまり、壬は丁からみれば正官であり主君に譬えられる。七殺の関係から壬が最も恐れるのは戊である。

ちなみに偏官の別名を七殺というのだと思っている輩が多いが、通変に関係なく、どの干でも、その干を1として7番目にくる干をすべて七殺という。

食神の七殺が倒食という食神を倒すの別名を持つ偏印のことであり、それぞれ正財の七殺が劫財であり、正官の七殺が傷官ということである。

日主をもって我となすの考え方から、いつのまにか我の七殺に当たる偏官が、まるで七殺の代表であるかのように扱われるようになってしまったのである。

それはさておき、丁の主君である壬は戊を恐れている。そこで臣下の丁が主君と干合することにより、五行の化気として木行を生じ、この木気で戊を剋して制圧し、壬を安心させるわけである。これが丁の壬に対する忠義であるということだ。

つまり「丁壬干合して木と化す。」といわれるものである。

ところが、この「化する」という言葉が大きな誤解を生じているように思われる。

「化する」というと元々火行である丁や元々水行である壬が、その本来の五行を捨てて木行に変質してしまったかのように思えてしまう。

えっ、そうじゃないの?という声があちこちから聞こえてきそうである。

しかし、考えてみてほしい。

丁壬がそれぞれ木行に変質してしまえば、たしかに戊に対して相剋の力を発揮することができ、戊からの脅威はなくなるであろうが、それでは忠義立てするべき主人の壬はいなくなってしまうではないか。

あくまでも壬を(存続させたままで)戊の脅威から救うからこその丁の忠なのである。つまり干合した2つの干は変質せずそのまま残り、これらの2つとは別に木行の力が発生するのである。

その意味では、断易における化出爻に似ている。

断易でも発動した爻は、新たな化出爻を生み出すが、それにより本位の爻である発動爻は消え去ったりしない。

その化出爻が本位の爻に対して回頭の生剋を引き起こしてみたり、化墓、化絶、化空などの現象を引き起こすのである。

断易の重要な文献『黄金策』は劉伯温が書いたものであるという。(否定的見解もあるようだが。)また『滴天髄』も同じく劉伯温の著あるいは編であるという。

特にこの『滴天髄』に対しては、劉伯温第二十二世嫡孫である劉廣斌老師が「先祖の劉伯温が有名な為に、多くの本を書いたことになっているが、実際には他人が書いたもので、滴天髄も劉伯温の著作では無いと思う。」との考えを述べられているために否定的見解を示す人も多いようだが、たとえ、劉伯温の名をかたる別人であったとしても『黄金策』と『滴天髄』の著者には共通点があるように思われる。

したがって玄学舎の四柱推命では、干合の化とは化出の意であり、元の干の五行が変質するわけではないと考えている。

ちなみに君に忠があるならどこかに親に孝はないのかと思ったあなたは鋭い。

このフレーズのすぐ前に「抱乙而孝」というのがある。

やはり主語は丁なので「(丁は)乙を抱いて孝となる」と訳せる。

この場合は干合ではないので、すぐ隣の位置にいることを「抱いて」という表現にしている。

乙は丁からみた偏印であり母(もっと広義には我を生んでくれたものなので親)を表す。

この乙の七殺は辛である。親に孝とはこの辛の脅威を制圧することである。この場合、丁は何を化出しなくてもそのままで辛の七殺なのである。だから丁が乙に寄り添っていれば辛の剋害を防ぐことができるのである。これが丁の乙に対する親孝行なのである。

さらに余談だが、この丁、乙、辛の関係は、乙の部にも書かれている。

「懐丁抱丙、跨鳳乗猴」がそれである。

この部分は「(乙は)丁を懐き丙を抱けば(ここでも抱が使われていることに注目すべきである)鳳に跨り猴に乗る。」と訳せる。

鳳は酉であり辛のこと、猴は申であり庚のことである。

つまり、乙は丙や丁に左右から守られていれば庚辛という金気の剋から身を守ることができるということであり、さきほどの丁の孝と同じことを言っている。

以上から、乙、丁、辛の組み合わせは、仮に乙を日干とした場合、月干丁、年干辛の並びとなり、月支は辛年の丁月より必然的に酉となる。

この関係は徐楽吾も『子平一得』十干性情の章で

「故乙木秋生、辛金透出、丁火制之、上上之格」と褒めている。

干合から話がずれてしまったが、実伝講義を聴いている方々なら先刻ご承知の話の運びである。

さて、滴天髄、面白いとは思いませんか?

◆開運極意

不惑を過ぎ人生折り返しの感を抱いて、下らぬ連中とはつきあわない宣言をしてから、はや幾歳月、諸般の事情から全てシャットアウトするわけにはいかない点もあるものの、語るに足る皆様とのお付き合いにより、以前にもまして人生が楽しくなってきたのは事実である。

命運という厄介なものを相手にする仕事を選んだのだから、命や運についてはイヤというくらい考えてきたが、運とは畢竟、邂逅であると考えるようになってきた。

自分が必要とするときに必要なヒトやモノが目の前に現れてくれることが、運のよさの真骨頂であろう。

金運にせよ、恋愛運にせよ、およそヒトが欲する運というモノのほとんどは、人間を経由してやってくる。いくら今年、金運があるといってもまさか空から金が降ってくるわけでもあるまい。仕事を通じて、あるいは人間関係を通じて金銭が流入してくるのが普通である。

開運占術というものは、この邂逅をコントロールしようというものである。合理的に設定された世の計画が実際、あまりその通りに進まないのは、偶然の邂逅を予測できないからである。この場合の計画とは、いわば目標達成の必要条件に過ぎないということである。

例えば、受験合格したいなら、もちろんしっかり勉強して学力をアップすることは必要であろう。しかし、事前の合否判定で合格可能性90%以上をたたき出したものは、受験に失敗することがないのであろうか?この場合、問題にしているのは、ケアレスミスなどの話ではない。

極端な話、受験前日に交通事故にあって入院してしまったら、その年の受験はあきらめねばなるまい。この場合は、今までの努力を無にするものに土壇場で出合って、そう「出会って」しまったのである。

これは何を意味するか、そう、努力だけでは邂逅をコントロールすることはできないということである。勘違いしてはいけないのは、努力を無用だといっているのではないということである。努力というのは、たとえば目の前に獲物が飛び出してきたときに間髪を容れず、それを捕まえられるように準備しておくことに似ている。しかし、準備万端整えて、さあ、どこからでもかかってきなさいと力んでみても、肝腎の獲物が現れてくれないのでは、せっかくの腕前も見せ場がないであろう。まさしく韓非の守株だ。

したがって世の常識家たちが「運命」を云々する姿勢を揶揄するのは全くバカの一言に尽きる。努力も必要条件なら、運が後押しをしてくれたり、そこまでいかずとも少なくとも足を引っ張らないことも必要条件なのである。

さて、命運学の世界には運をコントロールするための様々な技法があるが、多くは専門的な内容で細かな注意が必要なものであり、素人が簡単にチョイとというわけにはいかないものである。

では、素人でもできる開運方法は全くないのかというとそうでもない。

先に述べた、「運は多く人を経由してやってくる」という点に着目すればよい。人との関係を調整しておくことである。いわば人間関係のメンテナンスである。

乱暴に言うならば、人間関係の下手なやつは総じて運が悪い。いや、逆に運の悪さが人間関係の悪さとして現れているのだ。まして社会に適応できない連中に社会運があるはずもない。シンデレラストーリーでもあるまいに、ブスッとした不機嫌な面で引きこもっていて、ある日突然迎えの馬車が家に来るはずもないだろう。

いや、俺は天才肌だからとか、俺の価値は凡人どもにはわからないと嘯くのは勝手だが、その凡人どもにも劣る生活しながら何を言っているんだか?

こんな当たり前のことを考えもせず、「なんか開運法はありませんかねえ?」と平然として尋ねる神経がよくわからない。

妙な開運秘法に飛びつくよりは、まずは、そこから気をつけることである。

具体的には、自分が他人から見て魅力ある人間になることだろうし、少なくとも不快感を与えない人間であろうとすることだ。先ほどと同様に表現するならば、運の悪いやつは、たとえ神経質な面を多く持ち合わせていたとしても、どこか一つ致命的に鈍感なものを持っている。もちろん、人間完璧な人はいないのだから、大きく抜けたところを持っている人も多いはずだが、その場合、笑って許せる程度や出方であるものだ。運の悪い人間は、それが選りにも選って致命的な面に出ているのである。そう、本人が気づかずに他人に不快感を与えているのである。あるいは気づいていてもやめられないのである。やはりどこかズレている、おかしいとしか言いようがない。

また、長く命運学の世界に生きていると、この世には運命的なカーストが厳然と存在するということが実感できる。面白いもので、自分と縁のある人々は多く自分と同程度の運命レベルなのである。幸運な人々の中に一人不運な人が紛れ込むことは、一時的にあったとしても、そのままそこに居座ることはめったにできない。あるいは不遇な命運の人が開運法を施すことで、従来の人間関係から浮き上がってしまい、別の環境(当然以前より幸運な環境である)に往かざるを得なくなったりする。

したがって命運の力学的に排除されない限りは、運のよい人々と縁をつなぐことが開運のカギであるとも言える。

べつに眼の色変えて運のいいヤツに擦り寄ることもあるまいし、阿諛迎合する必要もないのだが、最低限、運の悪い連中とは付き合わないほうがよい。あるいは、先天的に持って生まれた運はいいのだが、現在、他人を不愉快にさせる運動を実践して不運になろうとしている悪運予備軍ともお付き合いは遠慮したい。

したがって、わざわざ占いを持ち出さなくとも、その人の友達をじっと観察することで、およそその人物の命運はわかるものである。星を見て占うのが星占いならば、人を見て占うから人占い、あるいは友占いとでも言えようか。

自分から見て尊敬できる人物、当たり前の人間として魅力的な人物、こういった人々とのご縁を大切にすることこそが、誰でもできる開運極意である。

◆風水講義

今年の初めに文春新書から三浦國雄先生の『風水講義』が出版され興味深く読ませていただいた。新聞の書評欄で見かけて店頭で手に取ったのだが、購入の最大の動機は、腰巻の「本書を熱心に読んでも幸せにはなれません−著者」という一文であった。先生のお人柄がよく表れておるわいと微笑んでしまった。もちろん、私は三浦先生とは一面識もない無名風水師であり、今までの先生の著作を通じての勝手な思い込みに過ぎないが。

本書は、明代の徐兄弟による『地理人子須知』というテキストを通して風水説の仕組みを紹介しようとするものである。実際に『地理人子須知』を手にしてみるとわかるが、この膨大な内容を新書版サイズの本が解説しきれるのかというのが、そもそもの疑問であった。そのための大鉈が振るってあったのは後半の「陽基論」「天星法」以降の、いわゆる理気の部分であった。一般に風水観法は巒頭と理気という2つの部分からなるといわれている。現在、日本国内で量産される(三浦先生の本とは逆の)ハッピーになれる(?)風水を論ずる本は、多く理気ばかりを説明している。やれ八宅派がどうしたとか、いや玄空派がどうだとかいうアレである。はなはだしいのになると全く巒頭には触れない純粋理気の本もあるくらいである。これらに対するアンチテーゼというわけではないのだろうが、理気をカットし巒頭のみを論ずるという立場は新鮮であった。もちろん、術者ではなく学者である先生には、理気の世界に深く立ち入ることへの躊躇があったのも事実であろう。学問的良心から理気を十分に解明するには、いくら時間があっても足りないであろうから。

また、先に述べたように「陽基論」が一章としてあったわけだから、逆に本書のベースは陰宅風水であることがわかる。もちろん龍穴砂水の、いわゆる地理四科といえば陰宅にきまっているのだが、それはともかく、この点も陽宅(陽基)風水一辺倒の現今風水ブームに対する冷や水となりうる本書の良い点である。

もちろん、陽宅でも巒頭と理気の両面が重要であることは当然である。たとえばT字路突き当りは、「路冲」とよばれ、気の直冲をまともに受けるのでよくないといわれる。「一條直是一條槍」といわれるくらいである。この点は日本家相でも同様に言われている。ところが、身の回りをよく観察してみるとコンビニなどでこの配置で成功している店舗をよく見かける。路冲という巒頭は基本的によくないのだが、実はこれに理気が作用するのである。『天元歌』には「囚宮冲起化為灰」と「冲起楽宮無価宝」という、相矛盾するかのような口訣がある。断易における冲起と冲散の違いだといえばわかりやすいであろう。時代と方向(これが理気である)により、突き当たりが大成功をもたらすこともあるというわけである。この一事を知ると知らぬでは、実際鑑定に天地雲泥の差が表れる。巷間、○○派と××派ではどちらが当たるだの、△△流は使えないだの不毛なヨタ話が多い。使えない流派があるのではなく、使えない個人がいるだけなのである。何も知らない連中の話など議論や批評にすらなっていない。我々は笑っていればいいのである。ただ黙って笑っていればいいのである。

◆羅盤引き立て役

先日、雑誌の取材を受けた。ポプラコミュニケーションズが新創刊する心理学の雑誌『PSIKO』(プシコ)である。

この雑誌は毎月特集を組んで、あるテーマを掘り下げるのだが、創刊号の第2特集では、「占いは心理学だ!」という特集を組むのだそうである。その中の「占い師になった理由」という箇所で、他の有名な先生方(シェフのお勧め)に混じって、無名なのが一人(シェフの気休め)ブツブツと語らせていただいた。12月7日には店頭に並ぶそうなので興味のある方は御覧いただきたい。

で、今日はその記事のための写真撮影。基本的に西洋占術と違って中国占術は地味で、カードやチャートなどビジュアル的に映える道具立てがほとんど無い。何か衣装や持ち道具でも使いますかとの問い合わせが事前にあったのだが、衣装や道具に負けそうなので日常のカジュアルな格好にすることにした。

しかし、この格好で何も持たないと背景の通行人と区別がつかなくなる恐れがあったので、風水用の羅盤を手にすることにした。

室内、屋外と場所を変え、プロのカメラマン氏に撮影していただく。屋外では近所のお寺さんにお邪魔して撮影。本堂の前、朱塗りの山門と様々な場所でシャッターを切られる。

その間、せっかく寺に来ているのだからと撮影用ではなく実際に堂宇の坐向を測り、風水鑑定をさせていただく。なるほど、前方の道路からの気の流れからすると水の条件はよろしい。問題は砂だな、なぜこの方角の砂が欠けていて、この寺が長持ちしたのだろう。不思議だ?おや?石碑がある。区画整理碑だと?味気ない石碑だなあ。いや、待てよ、なるほど、今は見る影もないが、かつてはこの方角に砂があったんだ。それなら納得。しかし現在この方角に欠陥があるのはやはり事実だ。いい後継者が育っているのかなあと他人事ながら心配。

そうこうしているうちに外での撮影終了。舎に戻る。撮影の間中は降らずにいたが撮影終了と同時に小雨模様。よしよし、瑞兆である。これならば、この雑誌の将来は明るい。私も一読者として末永くお付き合いさせていただこうと思う。

◆シンギョーです

先日、バス停でバスを待っている間、考え事をしていました。

無意識にポケットに両手をつっこみ、目線は右斜め前方に落とし、ブツブツと独り言。

ふと気がつくと、ヒロシになっていたとです。

ただ、それだけのこと、、、、、です。

◆ゴルゴのように

ある雨模様の日の午後のこと。その日は、朝から肌寒く雨も降っていたので、黒いウィンドブレーカーを引っ掛けて折りたたみの傘を差して家を出たのだった。歩いている途中で雨が小降りになり、ついには、ほとんど止んだ状態になった。

すると傘が邪魔になってきたので、歩きながら折りたたみ手にした黒い鞄の中にしまおうとした。傘を手にした片手で鞄のチャックを空け傘を押し込もうとするのだが、歩きながらだと、なかなかうまくいかない。そうこうしているうちに郵便局のある角を曲がることとなった。

そして、曲がり角で角の向こうから来た二人連れと鉢合わせ。ふと顔を上げると現金護送中のガードマン二人組み。こちらも驚いたが向こうもギョッとしたらしい。こちらの驚きは、心理的に無防備な状態でいきなり前方に人が現れた驚きだったが、先方の驚きは、仕事柄、前後左右の不審者に注意しつつ角を曲がったら、いきなり胡散臭い顔をした黒尽くめのオヤジが鞄から短棒状の凶器を出そうとしているように見える光景に出くわした驚きだったのであろう。そこはプロ、反射的に腰を落とし、油断なくこちらに対峙している。しかし、先制攻撃は仕掛けてこない。

それに引き換えこちらはアマ、なんか声を発して言い訳したほうがいいのか、いきなりホールドアップして悪意の無さを示したほうがいいのかなどと精神的には大パニック。しかしふと気がつくと、体勢的には無意識に腰を落とし、鞄の陰に隠して見せないようにしてはいるが前方の手の肘の下に後方の手を添え、いつでも穿掌を叩き込める状態になっている。

やはり継続は力なりで、毎日チンタラ、チンタラでも馬貴派八卦掌の練習をやっておくと、こういうときに役に立つもんだなあと再確認。

当然その場は、一瞬の緊張感の後、何事も無かったかのようにすれ違ってそれぞれ反対の方向に歩き出したわけで、もちろん、何事も無かったわけだが、緊張感の緩んだ精神状態はバカなことを口走らせる。

「命の惜しい奴は俺の後ろに立つんじゃない!」 BY ゴルゴ13

◆天童先生のこと

このたび敬愛する天童春樹先生より相互リンクのお申し出をいただいた。大変にありがたく光栄なことなので素直にお言葉に甘えさせいていただくことにした。

天童先生とのご縁をいただいたのは、実はつい最近のことであった。かねてより相術上の画相、気色というものを、もう一歩踏み込んだかたちで御指導いただける先生はいらっしゃらないものかと師を求めていたのだが、何気なく昔もらっておいた大阪中尾書店の目録をながめていたところ、天童先生の人相術講座(講義録全18巻)が掲載されているのを発見した。都内では鴨書店でも扱っているとのことなので早速入手、拝読させていただいた。内容は『神異賦』の解説と南北相法のエッセンス。なるほど、なるほど、わが畏友K先生が「おそらく現在入手できる相術のテキストでは最良でないかと思う。」との感想を述べておられたのが十分に納得できた。

その後、ネット上で天童先生のお名前を検索してみたところ、先生ご自身のHPを発見。さらに5月22日(日)に運命学に関する無料質疑応答会があるとの情報を入手できた。これは直接お会いするよい機会であると申し込みをしたところ、県外からわざわざ来るとは一体どんなヤツかということで(先生は高知県在住)直接電話連絡をいただき、恥ずかしながら易者の端くれでございますと自己紹介をしたところ、前泊するなら事前に会おうと言ってくださり、喜んでの御対面となったのであった。

ためしに断易を立ててみると、応爻の父母が世爻を生じてくれている。これは旅先でよき師匠に会えるという相(ただし、天気は悪そうだ。)安心して旅立った。

初対面の先生は、まるで武術家のような出立ちに、目張りを入れた舞台化粧かと見紛うような美丈夫(OB)。喫茶店に入るなり、縦・横・斜めとあらゆる角度から顔を観察された。「命術家に生年月日を言ってしまったり、相術家の前に顔や手をさらしてしまったら、身の上話を30分したのと同じこと」という格言は、今私が考えたものだが、相術の大家にお会いすると決めたときから、気分は俎板の上の鯉、どうせ、下手に取り繕ったって、すべてお見通しであろうと考えるとかえって気も楽、もう、こうなったらどうにでもしてください状態である。(でも、何を言われたかは秘密!)

翌日の質疑応答会当日は易の通り、雨。30人ほど入れる会場は満員。私も一番隅っこでおとなしくしていた。ところが、先生が気を遣って何かと話を振ってくださる。あろうことか、質問もだいたい出尽くした最後の時間には、「今日は東京からわざわざ先生が、、、」などと皆様にご紹介いただき、「運命学の勉強の仕方についてお話していただきます。」と勝手に段取られてしまい、「きいてないよ〜!」と心でつぶやきながらも、そこは現場に強い大石のこと、他人様の講座でミニ講義をしてしまいましたとさ。

さらにその後も、懇親会で呑む、食う、歌うと大歓迎してくださり、非器不才の後輩は懐の深いこの道の先達にすっかり甘えさせていただいた。

もちろん、さんざんお世話になった御恩返しの意味もあるが、何よりもこれだけの実力のある先生は、もっと世間に認知されたほうがよいのではないかと考え、この夏から秋にかけての時期に先生を東京にお招きして人相講座をしていただこうかと計画している。今回、先生にその旨をお伝えしたところ御快諾くださり、晴れてここに計画を公開できる運びとなった。詳細が決定しだい、弊HP上で公開、および参加者の募集をさせていただくこととなる。乞う御期待!

◆ということで

何が「ということ」なのか、わからないが、玄学舎は第2期の活動に入る。思えば、2004年1月に雇われ主任を辞めて、玄学舎独自の路線を歩み始めて1年半、多くの有能な方々と、それを上回るそれ以外の方々(!)との出会いがあり、いろいろと貴重な経験もさせてもらった。術数的にも多くの発見や再認識、理論修正など有意義な時間をすごすことが出来た。

かつて、この道の大先達より「大石君、器用な便利屋には為るなよ。」といわれたことがあった。そのときも、その言葉の意味は十分理解し以って心に刻んでおいたつもりであったが、玄学舎の活動を切り替えようとするこの時期に再び原点の確認をするべく自分の胸に手を当てて思い返してみると、思い当たることはいろいろとあり、中途半端にいろいろな占いを突っつきまわした身には耳に痛い言葉であるものだと今になって思う。

どうせ講座を開くなら、あまり知られていない珍しい占術を紹介したほうがみんなのためになるのではないかという思いは、その講座が終わって半年後に偶偶出会った元受講生たちに「あの占術使ってる?」という質問をした際に返って来た、「あれ以来、全然使っていないから忘れちゃいました。」という言葉で成仏した。

考えてみれば戦前あたりの易者(この場合には占い師の意)は、周易と相術ぐらいで全ての占客をさばいていたわけで、きちんと一つの術を極めればむやみに術を横に広げる必要もあるまい。

また、今まで突っついてきた多くの占術は時間をかけて融合し熟成し、表面上はオーソドックスでシンプルな占術の中に内包されるようになった。したがって紹介する占術の名称が世間によくあるものだからといって、その内容まで同じであると限らない。

以上が、第2期玄学舎では、あまり奇を衒った占術紹介をやらない理由である。

もちろん、多数の占術に通じることは決して悪いことではなく、占術界の内外を問わず見識を広めることはむしろ奨励すべきことである。問題なのはその中途半端さだ。

無論、私とて冷静に自己認識してみて精々が三流の売卜だ。世の中には一流といわれる実力を持った方々がたくさん(は、いないか?)いらっしゃる。有名、無名とは一切関係ないのはもちろんである。このような方々の実力を見せていただく貴重な機会を得た者としては、とても私風情が二流を名乗ることなんざ、おこがましくてできたものではない。したがっての三流宣言なのである。私に威張れるようなものなど何もない。私程度のことが出来て当たり前なのである。まさしく「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候」である。

唯一の励みは「おかげさまで○○出来ました。」と、わざわざ御礼を言いに来てくださる占客の皆様の存在だ。三流であろうが、とりあえず社会貢献は出来ているらしいと安心する瞬間である。

占術は、やはり道具であろう。どの道具を手にし、それをどのように使うかはその人次第だ。さらにその結果を知るのは使ってみた経験のある本人だけである。占術を知って、それ以前より生きにくくなるなら占術などやらないほうがいい。

さて、占術を知るようになった諸彦諸氏よ、あなたはそれ以前より幸福だろうか?

◆マジシャン

某知人より、世間は師走だというのに最終更新日が八月というのは、どういうつもりであるか?恥を知りなさいと怒られた。だって貧乏金無し暇も無しだも〜んと逃げ回っていたが、よく考えてみればお説一々御尤もということで、いくつかアップすることにした。

私は風呂上りにドライヤーを使う習慣がない。タオルでバサバサっと拭いた後はブラシも使わず自然乾燥に任せている。特にポリシーがあってのことではなく、昔からなんとなくそういてきた。最近、ほったらかしにしておいたので髪が伸びてきた。すると自然乾燥に時間がかかり、特に最近はめっきり冷え込むようになったので、頭のてっぺんから風邪をひきそうな気配になってきた。(生乾きの頭のままパソコンに向かったりするからだという意見もあるが、一応却下しておく。)これではイカンということで、床屋に行き、全体に短くしてもらった。たしかに風呂上りは非常に楽になった。すぐ水分を拭き取れて、すぐ乾いてくれる。しかしここに意外な盲点があった。刈り上げまではいかないが、うなじ部分を隠していた髪を切ってしまったために、うなじから風邪をひきそうな事態になってしまったのである。(髪を短くしたって、相変わらず風呂上がりに裸同然の格好でパソコンに向かったりするからだという意見も根強くあるが一応却下しておく)やはりマフラーを巻くべきか?

なに?タイトルのマジシャンの話が全然出てこない?

そうそう、それでした。ちょっと髪を長めにしていたころは、マジシャンのナポレオンズの大きい方(ボナ植木氏)に似ているといわれることもあったのですが、髪を切って家に帰って鏡を見たら、髭のないマギー司郎氏が立っていたのでした。

◆断易と周易

初めて断易の講座を開講したときのこと、お問い合わせの中に多かったのが「私は周易はわかるのですが断易は全く初めてなのです。ついていけるでしょうか?」というもの。念のために「周易はお出来になるのですね?」とうかがうと「専門です。」とのこと。

私は周易がわかるとかできるという人を尊敬してしまいます。私などは他の占術に比べ、周易は後発だったため、まだ十数年足らずにしかなりません。

私には三十年来の付き合いになる四柱や占星、九星などのように身体化しているといってもいい占術があります。万年暦を記憶し、陰陽五行の理論体系を頭の中に叩き込んだおかげで、風呂に入っていようが飯を食っていようが生年月日時のデータさえ言ってもらえれば判断はできます。占星データだけはさすがに覚え切れませんでしたので、エフェメのご厄介になっていますが。

これらの血肉化した占術に比して、まだ周易と私の間には隔たりを感じています。つまり、占うときに始めて道具を手に取るという感覚がぬぐえないのです。たしかに占えば当たります。読めます。しかし、これでいいのか?という根本的懐疑。とても「善く易を為むる者は占わず」の境地からはほど遠い。もちろん、経伝を頭の中に叩き込み、白蛾の唯我独尊に付き合い、真瀬の生卦法のジャングルをさまよい、大岳先生の玉稿に親しみという努力はしてきたつもりだし、続けているつもりではあります。(金風はさすがにつらい)が、手になじんだ道具ではあっても、手にはなっていないというジレンマ。今ではおそらく周易は底なし沼で、5年学べば5年分理解でき、10年学べば10年分、その姿を現すものなのであろうと考えるようになりました。

そしてその過程で見えてきたもの。それは断易を理解しないでなんで周易が理解できるのだろうかということでした。略筮でチャラチャラとサイコロでも擲げて後は易経の読み下しや拡大解釈を書いたアンチョコをパラパラ見るだけの易占なら、どれだけ楽でしょうか?まさかこのレベルで易ができますなどという人はいないでしょうが、現代は何でもありの時代ですから、こんな恥知らずもいるかもしれません。

断易と周易は全く違う、断易は易の形を借りた干支術である。すべてその通りであるし、私もそう教えています。しかし、なぜ断「易」なのか?なぜ「易」の形を借りる必要があったのか?周易が出来る人なら答えられなくてはならない。さらに究極の質問を一つ。中筮は誰が創始したのですか?別に具体的人物名を挙げよということでもないし(多分それは無理でしょう。)いつごろ、どのあたりでということです。本筮と称していながら中筮ライクな易しかやらない人が多い昨今、あなた方の使っている中筮のルーツは?という質問です。周易家を標榜している方々にお尋ねになるとよろしい。

結論、おみくじ易ならともかく、真に周易の本質に迫ろうとするならば、漢代象数易学のエッセンスとしての断易を理解しなくてはならない。

◆変なおじさん

占い師などというやくざな稼業をしているせいで、スケジュールはかなり自由にできる。先日も平日の午後に時間が取れたので近くの公園に行き、辺りに人気のないことを確認して馬貴派八卦掌の走圏を行っていた。走圏というのは直径3メートルほどの円周上をただ歩くだけの練功法なのだが、これがもうとてつもなくハードで5分も歩けば冬でも全身汗みどろ、腕を下に向ければひじから腕を伝わって汗が流れ落ちるほどである。同門の夏目房之介先生もエッセイで書いておられたが、まさしく「一時はあえぎ声を上げながら、死にそうな顔をして歩いていた。」なのである。別に秘密主義ではないのだが周りに他の人々がいると、とっても怪しまれること請け合いなので、なるべく人のいない時間帯を選んでいるわけである。(もっとも私は落ちこぼれだから武術の腕前のほうは、何も人様に秘密にするようなことはないのは当然であるが。)

で、一息入れて、ちょうどぼ〜っと立っていたときに、角の向こうから子供たちの声が聞こえてきた。「あの公園に行ってサッカーやろうぜ!」学校が早く終わった子供たちが遊びに来るようだ。さて、どうしようかななどと考えながら声のする角をなんとなく見ていたら、子供たちの姿が現れた。私の姿を目にした一番先頭の子供が「だめだ!変なおじさんがいる!」と叫んだ。

この少年こそ気功の達人であった!たった一言で、私の全身心に多大なダメージを与えたのである。たしかに走圏している姿を見られて、変なおじさんと言われたことは何度かあるが、このとき私はただ自然体で立っていただけで決して妙なポーズはとっていなかったし、妙な服装もしていなかった。なのに、、、、変なおじさん。志村けんか!俺は?

結局、真っ白に燃え尽きた変なおじさんはベンチにうなだれて子供たちのサッカーを見ていて、途中、木の枝に引っかかったボールを落してやったために普通のおじさんに昇格して家路につきましたとさ。

◆知恵者が居られる。

私がたまに利用する駅の駅前通りを歩いているときのこと。「呑み食いどころ」というのであろうか?酒も飲めるし食事も出来るというお店があった。遠くから見ても目立つ大きな字で「鳥」と書いてある。この看板を見て、ここのオヤジは鳥が好きでバードウォッチングでもやるのかな?などと思う人はあまりいないだろう。もちろん私もそんなことは考えずに歩いていた。(あくまでも事態が飲み込めない人への念のためだが、鶏肉料理が自慢の店らしい。)少し近寄ってみると、さらに別の文字が書かれていることに気づいた。アイキャッチというヤツだろうか。なになに、、、

「家に帰って飯あるか?」

おおっ!この吸引力はなんだ?自然に足が店に向いてしまうではないか!家に帰っても家族の誰からも口もきいてもらえないお父さんたちはいうまでもなく、貧しい食生活を余儀なくされている自炊の学生さん達、果ては単調な日常生活にくたびれて果ててしまった主婦の皆様まで、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように店内に引き寄せられていくではないか!(注:あくまでも心的イメージです)

どこのどなたが考えたのかはわからぬが、スゴい!私は、この抗いがたい誘惑に打ち勝つために腿に錐を刺して正気を取り戻し、やっとの思いで妖術から逃れてきた。(注:あくまでも心的イメージです)

危うく虎口を逃れた私がなおも、その通りを行くとスナックがあった。ごく普通のスナックである。何気なく窓に目をやると求人の案内が張ってある。なになに、、、

「プーはいいけど、パーはダメ」

おおっ!この店側のニーズを簡潔に表現し、しかも韻まで踏んでいる表現のすばらしさはどうだ!それにしても、いったいなんなんだこの通りは!?

以来、ショックに打ちのめされた私はこの通りをコピーライター通りと呼ばせていただいている。

◆恐怖再び

先日、事務所で仕事が終わり、家に帰る途中でのお話。電車の中で本でも読もうかと、かばんの中をゴソゴソしているうちに携帯電話がないことに気づく。「おいおい、またかよ!これじゃまるでコラムのネタのために、わざわざ失せ物を作っているみたいじゃないか。」などと冗談を飛ばせるうちは、まだよかった。

隅から隅まで荷物をひっくり返してみたが、やっぱりない!「う〜む、やはりアルツは深刻化しているなあ〜」などと、この期に及んでまだ軽口をたたく。しかし、笑っている場合ではない。事務所に連絡をして確認を取りたいのだが、肝腎の携帯がないのでは話にならない。

以前、このコラムで易を立てて鍵の在処を占った話を書いた手前もあることだし、今回も占いで解決してしまおうと考える。しかし、前回は事務所で、それ以前の失せものに気づき、事務所という神蓍を振る場所があったので本格的な易を立てることが出来たわけだが、今回は車中でもあり、易の道具を出すのも気が引ける。

よし、無筮立卦だ。梅花易数でいこうと決心する。早速、時計を見る。8:45 だ。上卦坤、下卦巽、4爻変(5爻変の間違いでは?という質問が出そうだが、4爻変である。これが秘密のポイント)よって体は巽、なるほどねえ、携帯電話は巽で出たか。用は本卦の坤から之卦の震へと変化する。体剋用の吉から体用比和へ。悪くない流れだ。之卦の用に震が出た。必ず発見できる。本卦の坤より事務所だ。また、坤が巽より剋されるのは急いで事務所を出たための忘れ物。(若しくはボケ!?)転じて震となり巽と比和するのは自宅に戻って電話で確認すれば一発で発見の象。

以上のことを頭の中で推理すると一安心、読書に専念できた。結果は?古典の占例なら「果然」の2字で済むところ。事務所に電話して私の部屋を見てもらう。電話口に戻ってきたスタッフが笑いながら「こげぱんのヤツで、いいんですよね?ウププ」と訊ねる。「そう、それ、間違いない。(笑うんじゃね〜よ)」と威張る。いやあ、毎度毎度、易には助けられること。って喜んでいる場合じゃないよ!そのうち「今日、私は朝ごはん食べましたっけねえ?」なんて易立てるようになったらおしまいだぞ。

◆いいもの、み〜つけた。

先日、書店で風水書のコーナーを覘いてみた。最近は見ても不愉快になるような本ばかりなので久しくご無沙汰をしていたし、今回も特に期待もせずに行ってみると案の定、ああ、相変わらずこのコーナーにいてはいけない本ばかりあるな〜ってな感想であった。

ま、こんなもんでしょと思い帰ろうとしたときに、ふと一番隅っこにひっかかっている本を見つけた。まずは著者チェック、陳惠運、著者名に見覚えなし!これは期待できるかも!?

次いでタイトルチェック、『実践 効く風水』?すっげ〜、ベタなタイトル。やっぱ同じ穴の狢か?軽い失望感にとらわれながら厳しい目で中を見る。すると、みるみるゆるむ私の表情。ああ、なんということでしょう!

この本、まともだ!

原典『八宅明鏡』に準拠したその内容は、八宅派を標榜する他の類書(これ自体が少ないのだが)を凌駕して余りある。本命卦のことを本命掛といっているセンセ〜どもは論外としても、一応正統に属する方々も純粋な八宅の理気を説く方はなぜか少ない。玄空紫白の理気を混ぜてみたり、龍門八局の要素を加えてみたり、複数の理気の混合態を説明する方が多いのはなんとしたことか?

そんな日本の現状にあって、純粋な八宅派の理気を、しかもハウトゥー的にわかりやすく解説してくれる本書を良書といわずしてなんとしょう。

この著者の方、全く存じ上げなかったのだがプロフィールから見ると、いわゆるプロの方ではないように思える。またタイトルの前に「陳さんの占いシリーズ」という文句がついていることから考えると他の占術書の刊行予定もあるらしい。(中医学書はすでに一冊出ている。)大いに期待したい。

◆読み書き算盤

これは気学家に限ったことではないのだが、五行の生剋の話をしていて必ず引っかかる言葉がある。主から相生される客のことを「洩気」と言うのだが、問題なのは、この読みである。多くの既にどこかで占いを習ってきた連中は、この単語を「ろうき」と読みやがる。頼むから、そういうみっともないことをするなよ。手間を惜しんでないで字書ぐらい引けや。「洩」この漢字に「ろう」なんて読みがあるのなら教えてくれ。少なくとも日本で流通している字書には「えい」と「せつ」の2つの読みしかないはずだ。したがって「洩気」は「えいき」か「せっき」だろう。

戸籍の名前なら人名に使用できる漢字さえ使っていれば、どう読んでもかまわないだろうが、この手の用語は、そうはいかない。いや、うちの流派は白と書いて「くろ」と読ませるんだというのなら別に文句は無い。愚者の楽園を地上げしてマンションを建てる趣味は無いからだ。

同様にみっともないのが十二支の「ひつじ」だ。もちろん「羊」と書くのは論外だが、ではこれはどうだろう?「末」いいんじゃないでしょうか。などと言った(あるいは思った)人は失格、バケツ持って廊下に立ってなさい。玄学舎なら即、破門だ。正解は「未」2本の横棒の上下の長短が逆になっている。漢字には線の長さが多少違っても問題の無い文字と長さが変わると文字そのものが違うものになってしまう漢字とがある。「未」と「末」は後者に当たる。第一、読みからして「未」は音読みで「ミ」「ビ」訓読みで「ひつじ」「いまだ」で、「末」は音読みで「マツ」「バツ」訓読みで「すえ」だろう。

読み書きと来たので最後は算盤つまり計算だ。四柱推命の命式のパターンはどのくらいあるのだろうか?この場合、蔵干がどうしたなどと言い出すとまたウダウダと説明をしなくてはならないので、ここで言う命式とは四柱八字の組み合わせであると定義しておく。市販の書籍の中には、命式の一つの柱は60干支つまり60通りの組み合わせがあるので命式全体としては60の4乗つまり1296万通りの組み合わせがあると書いてあるものがある。こういう著者の方には是非1296万通りの命式を書き出していただきたいものだ。暦法に対する不勉強がこういう無知な発言をさせることとなり、占い師に対する世間の信頼を失わせることとなる。「1年は何ヶ月あるの?」この一言で気がつけばまだしも、何を言われたのかわからない「せんせ〜」も随分いるらしい。

「先生と、呼ばれるほどの、大馬鹿野郎」

◆ころんだ

この間、夜道を歩いていて思いっきり転んだ。

痛かった。(子供の作文かよ?)

あんなに思いっきり転んだのは大人になってから初めてではなかろうかと思うくらい派手に転んだ。場所は街灯のない駐車場だった。そろそろ駅に近い場所でもあったので電車の発車時刻などを考え、少し歩調を速めた瞬間、駐車場の車止めの敷石に躓いて、まるでマンガのように見事に前方に倒れた。

左掌と右肘、そして右足の膝小僧の下を擦りむいた。特に足の怪我は惚れ惚れするような出血で、見ると穿いていたジーパンの膝の部分が横一文字にパックリと裂けていた。幸い他に人通りもなく、別に誰が見ているわけでもないのだが、反射的に立ち上がり、とりあえず平気な顔をして体裁を取り繕った私は我ながら大人だなあと思ったのだった。

その後、電車に乗らなくては帰れないので、しかたなく乗ったのだが、座席に座るとジーパンの裂け目から傷がモロ見えになるので、こんなものを皆様にお見せするのは心苦しいし公序良俗に反すると考え、ずっと隅っこに立ち続けていた。

後に、同情を引こうと思って、「このあいだ転んじゃって、すごい出血でさあ。」などと話したところ、整体の心得のある某氏(特に名を秘す)は「ああ、体が悪い血を出したかったんだねえ」とあっさり言われて、なるほどなあと感心してしまった。そういえば、この怪我の一週間くらい前から、左眉尻と右眉中央、そして右小鼻の脇から法令にかけてニキビ様のものが出来て、ずっと治らなかった。人相の基本である小人形法によれば、これらの位置は見事に怪我をした人体部位に対応している。「易者身の上知らず」とは、よく言ったものである。

◆九星、常識のウソ

たとえば俗流気学書によく、平安貴族も深く方位を恐れ、方忌みや方違えをしていた。などと書いてある。だから気学の歴史は古くて信頼できるんだよといいたいのだろう。貴族が信じたから正しいのか?とか、現代気学の創始者は園田真次郎だろ?という常識以前の突っ込みはおくとして、今回問題にしたいのは、平安貴族の利用していた方位学は九星術だったのかということである。

平安期における方角禁忌の研究書としてコンパクトによくまとまっているのは『方忌みと方違え』ベルナール・フランク著であろう。この書によれば平安期において忌み嫌われた方角は、永久に万人に凶であるとされた鬼門、永久に凶であるが人により異なる絶命を除けば、それは遊行神によるものであるという。遊行神の主なものは天一、太白、大将軍、金神、王相の五種類であった。見ての通り、九星は全く登場してこない。もっとも『玉葉』や『拾介抄』などには、これらの諸悪神を制するものとして三白九紫(一白、六白、八白、九紫)が出てくる。ただし、この4つを吉と考えるシステムは現代気学のそれではないし、何よりも他の遊行神に対する鎮静剤として出てくるのみで、九星を中心に吉凶をみたなどとは全く書かれていない。

つまり、平安貴族が五黄殺や暗剣殺、本命殺、的殺なんぞを恐れてオタオタしたなどという事実は無いということなのだ。

さらに気学では生まれた年の九星を本命星として重視するが、肝腎の年の九星が現在の正しい形におさまったのは江戸期の天保年間のことである。厳密に言えば、貞亨元年に日本と清の九星配当が違っていることが判明し、天保年間に松浦琴鶴により訂正案が出され、実際に九星配当を中国のものに合わせたのは元治元年(なんと!明治維新の4年前)のことであった。繰り返すが、これは現在でも異論百出の日の九星の話ではない!年の九星の話なのだ。百万歩譲って仮に平安期に九星を使っていたとしても、現在の気学の本命星とは違う本命星を使っていたということになるのだ。

また肝腎の方違えの方法もいろいろと気学のそれとは異なる。実はここに方位活用の秘密があるのだが、あえてここには書かない。

以上、簡単な例ではあるが、こういった間違い話は他にもたくさんある。これらの要素をすべて吟味し、取捨選択を加えたものが4月から開講する玄学舎の九星術なのである。あえて既存の九星気学とは全く異なると宣言する所以である。

◆手前味噌

いよいよ今週末から玄学舎の一般講座を始める。先ず1月17日(土)は、大盤振る舞い企画第1弾「九星術応用開運法」と第2弾「暦の構造」を公開することにした。

開運法は、とにかく理屈ぬきで実行してみて実際に効果があるかどうかを自分の経験で確認してもらうことを目的としている。であるから理論説明は一切なし。時期と方角とある行為(これがミソ)を組み合わせることで意外な効果を狙おうとする秘伝である。従来の方位学の技法では、同じ星(生年月日)の別人が同じ時期と方位を利用したのにその効果に差が出たときに、その理由として今まで使ってきた行動が違うからだとするが、それを単なる過去の説明に終わらせるのではなく、これからの方位効果の差として積極的に利用しようとするものである。同じ吉方位に行ったのなら、寝てすごそうが、せっせと歩き回ろうが、買い物しようが同じであるとは考えられないではないか。とすればもっとも効果的な行動があるはずである。勘違いしてはいけないのは水を採るとか土を採るというのは、ここで言う行動とは意味が違う。教わってみればコロンブスの卵であるが、さて、その内容とは?それは当日のお楽しみということで。

また、暦の講座は逆に理論的説明のための講座である。とはいうものの実践に役立たない無駄な講座などするはずもなく、今回も使える暦法論である。たとえば、大石の宴会芸の一つに万年暦無しで命式を立てるというのがある。つまりグレゴリウス暦以降の、300〜400年くらいの期間であれば生年月日時を言ってもらうだけで年月日時の干支九星が出せるのである。まあ、これは何も驚くほどの技術でもなくプロなら出来て当たり前のワザである。ただ素人さんや半可通には非常に不思議に見えるらしく秘伝ですかと聞かれるのだが別に秘伝でもなんでもない。ということで今回は、その技法も公開する。同時にもう一つの目玉は、旧暦の構造である。いまだに、九星や四柱推命は陰暦を使うとか旧暦では正月は立春であるとか、暦というものを全くわかっていない無知な発言をするバカ占い師が多くて困る。旧暦というシステムの構造をわずかでも理解すれば、こんなたわけた発言は出来なくなるはずだ。しかし今回旧暦を取り上げるのはそれだけの理由ではない。実は旧暦に隠されたある構造を理解しておくことにより周易と奇門遁甲が飛躍的に理解しやすくなるのである。一見地味な講座に実は大変な秘伝が隠されているというよい事例であろう。

さて、準備は着々、仕上げは如何かな?

◆処理

中華国術に靠(こう)という技撃がある。(奇しくも今季発売の雑誌『武術』2004年冬号が「靠撃」を特集している。シンクロニシティであろうか?)興味のある方はその雑誌をお読みになればよいと思うが、簡単に言えば「靠」とは通常よく見られる拳脚以外の体の中心に近い場所からの打撃といっていいだろう。主として肩や、胸、背中、腰などの部位を使うのである。これらの部位は腕や足のように伸縮性がないので極めて接近した状態で使用される。独特の技術により、極めて短い距離からでも大きな破壊力を与える怖いワザである。

で、いきなり話は変わって、近頃街中を歩いているとジャマな奴らが多い。それは年齢や性別には関係がない。ガキもいれば、死にぞこないもいるし、厚顔無恥なオバサンどもは言うまでもなく、社畜の無能サラリーマンもいる。要は、道を歩くマナーを知らない連中である。お互いが気持ちよく歩けるように譲るべきところは譲り合うのが人間である。しかるにこの人間未満連中は、自分の身体幅以上に広がり、相手に譲らせて当然だと思っている。あまつさえ、わざとぶつかってくるとしか思えない奴さえいる始末。この手のゴミには、通常すれ違いざまにくるぶしを蹴り飛ばすことにしている。やはり足首にほど近いむこうずねの下部も効果的である。こいつらはどうせ人間ではないのだから容赦の必要などない。

で、何らかの事情で足が狙えない場合、いよいよ靠の出番である。さて、その効果は如何なものであろうか?

いや、別に危険でもなんでもないですよ〜、全然大したことありませんって。ウソウソ、私のやることですから威力なんかないってば〜!

◆癒し(い)系

占いは職種として考えた場合、サービス業に含まれると私は考えている。ところが世の中には、占いは神聖なるワザなのでサービス業などと分類するのはけしからんとおっしゃる方も結構いらっしゃる。人様が何をどう考えようと御自由ですので私と違う考えの方がいても全然問題はないのですが、その手合いでナニかと突っかかってくる連中がるので困っている。曰く、占い師は人助けなのだからお金を取るのはけしからん。金銭を授受すると穢れる、実力(霊感?)が落ちて無くなるなどなど。

これらの貴重なご意見に対しては「あ〜そうですか」という感想と欠伸しか出てこないのだけれど、一つ素朴な疑問。占いは聖なる御業だから、それで金は取れないという方はナニで食っていくんですかねえ?この市場経済社会で一切の金銭の授受を拒否し、飯も食わず、糞もしないお方のお言葉なら、へへ〜っと御聞きしますが、そういうお方はいたとしても極めてレアケースでしょう。それ以外の連中の戯言なら「てめえらだって飯食っていかなきゃ生きられないんだろうが、奇麗事ぬかしているんじゃねえぞ!」と申し上げたくなってしまうのであります。「いや、自分は占いでは金をとる気にならないから別の職業を持って生活している。」という一見もっともらしい優等生的反論も「身過ぎ世過ぎで占いとは別の職業を持っているというのなら、その職業に対する冒涜だろうが、労働をなめるんじゃねえぞ!」などともコメントして一蹴してしまいたくなるのであります。

ついでにもう一つ根本的な疑問。占い師はいつから御助け稼業になったんですかねえ?占いをサービスと定義したときに、そのサービスとはどんなサービスかといえば、それは情報サービスということになるでしょう。未来情報、あるいは通常の方法では知ることの出来ない(あるいは難しい)情報を提供するサービス業です。その情報を活かすのはクライアント(占客)自身です。もちろん、その情報をまったく無駄にしてしまうことも本人の自由です。

私は占い師というのは、クライアントに対して最も親切な他人であるべきだと考えています。誰も自分の人生を肩代わりしてくれる人はいませんし、してはならないでしょう。生きている主体は誰なのか?もちろん自分自身です。その主体性を阻害するような占いなら占いなどないほうがましです。具体的に言うならば、占いジプシー、あるいは占いジャンキーと呼ばれる依存症の人々がいます。占いなしでは日常の簡単な意思決定すら出来なくなってしまった人々。自己の主体性を放棄してしまった人々です。この連中の首根っこ捕まえて「今日は右に行け。明日は左だ。」とやってあげることが果たしてこの連中のためになっているのでしょうか?こんなことをいうヤツもいうヤツだし、言うことを聞く奴も聞く奴です。こいつら(双方共にです)を称して私はイヤシ(イ)系と呼んでいます。「私の言うとおりにすれば幸せにしてあげる。」こういう趣旨の発言をする占い師のやっていることは結局このようなことなのです。他人の人生を冒涜するのもはなはだしい所業といえましょう。要は、人を救うだの癒すだの軽々しく言うんじゃねえ!という極めて控え目な主張をしたいのであります。

では、占い師が干渉していいのはどこまででしょうか?それは、その人の願望にとって有益と思われる情報を提供するところまでです。その情報を活かすも捨てるも占客にゆだねるべきです。世の中には知ってか知らずか不幸になろうと努力している人たちが大勢います。不機嫌な顔をして、責任転嫁を繰り返し、無謀な欲望とその結果としての挫折、そこから発生する恨み、妬み、このように日夜努力して不幸になろうとしている方々の主体性を無視して、私が術を使って幸せにしてあげるなど、とてもとても不遜な行為で私などのよく出来るところではありません。私は別に積極的に世の中に害悪を流そうとするほど悪い奴ではありませんが、かといって別に世界人類のためにこの身を投げ打って人助けに奔走する趣味ももちあわせてはおりません。不幸になりたい奴は勝手になればいいのです。その意味で不幸は本人の趣味です。「では、お前にとって占いとは何なんだ?」というご質問ですか?もちろん、仕事です。私は価値のないものに法外な値段をつけて売るような悪徳商人ではありません。価値ある情報をそれに見合った対価で提供する情報サービス業者なのです。

◆トンパ

ずいぶん以前になるが、当時の常連客のおば様方の一団が中国旅行をしてくるという。道中の安全などを占って送り出したのだが、無事帰国後にお土産をいただいた。印章を作ってくださったのだという。ちなみに印鑑というのは印の鑑つまりは鏡であり、印影のことを指すらしい。したがって厳密にはハンコは印章というべきであろう。

さてその印章、実に変わったものであった。絵と文字ともつかない形が刻まれている。見ようによっては子供の作った芋バンの模様の様でもある。それくらい稚拙というか素朴な絵文字であった。そのときの正直な感想としては、「なんだかセンスのないハンコだなあ。田舎のいい加減なおみやげ物屋にでも作らせたんだろうか?全くよりにもよって、こんな柄を(以下83文字ほどブチブチと文句が続くも省略)」というものであった。であるから特に使用するわけでもなく引き出しの奥にしまいっぱなしになっていた。ところがその後、書店で「トンパ文字」に関する本を見つけ興味を持って読んでみるとなんとこの印章(とたんにハンコと呼ばなくなる現金な私)トンパ文字で大石眞行と彫ってくださっているものであることが判明した。

ちなみのこのトンパ文字とは中国雲南省の少数民族の使う象形文字である。その日からこの印章の地位はぐんと上がった。ええい、頭が高い、胴が長い、足が短い、ここにおわす印章様をどなたと心得る。畏れ多くも中国雲南省はナシ族の皆様方が現代に伝えるトンパ文字であらせられるぞ。ひかえおろう!という具合である。たまにサインなど求められると下手な字はそこそこにしておいて、脇にこの印を押すと、カナクギとの対比効果で印鑑が非常に映える。特に自慢の朱(これは台湾で求めてきたもので契約などでトラブルを起こさないという魔除けの効果があるもの)を使用した印鑑などは我ながらホレボレする出来である。これで脇に汚い字などなければ売るときにもっと高く売れるだろうになどと考えてしまうのだが。

◆タクシーと些細な間違い(その1)

昔、郊外で行われたイベントに駆り出されていったことがある。場所は住宅展示場で、見学者へのサービス占いということで図面を持ってきた人の家の風水を無料鑑定するというものであった。実際には家の購入を考えるお客様はそんなに多くはなく、地元の方が暇つぶしに来たりして、無料占いを楽しんでいかれるケースが多かった。私はこのとき田舎の財力を見せ付けられた。何しろ持ってくる図面の敷地面積が違う。間取りの大きさが違う。何で貧乏人の私が金持ちを更に金持ちにするための相談を受けているのかと自分の人生を考えてしまったりもした。しかし、今回のテーマはこちらではない。会場までの送迎はタクシーを手配していただいたのだが、その車中で他の占いの先生と相席させられた。私のような無名のものとは違う某有名おば様占い師(ご本人の名誉のため特に名を秘す)であった。私は恐縮して、こちらから話しかけるのも失礼かと思い黙っていたのだが、この先生は気さくなよい方で、唐突に話しかけてこられた。

「ダビングって本当ですよね。」

???????無限とも言うべき?が脳裏を駆け巡る。

この先生は何をおっしゃりたいのだろう?ダビングにウソも本当もあるのだろうか?画質の問題か?不正コピー問題だろうか?あるいは著作権?知的所有権?

すると私の不審げな態度に先生は更に言葉を継ぐ。

「本当に動くんですよね。」

そりゃ動画だもん、動くでしょうが。と突っ込みを入れようかと思った瞬間、すべての疑問が氷解した。この先生は「ダウジング」とおっしゃりたいのだと。さりげなく言葉を修正して差し上げようかと思ったが、失礼に当たるかと思い遠慮した。私は明るく応答していた。「そうですよね。ダビングってすごいですよね。」

タクシーはまだ当分、目的地につきそうもなかった。

◆タクシーと些細な間違い(その2)

ずいぶん以前のある日、タクシーに乗った。運転手さんが話し好きなおじさんで自分のことをぺらぺらとよく話す。やがて話は家族の話題に及んだ。運転手さんの御母堂様はまだ御健在だそうなのだが、心臓が悪くペースメーカーを入れているのだという。最近は携帯の電磁波がペースメーカーに悪影響を及ぼすというので危なくて電車に乗せることもできないのだという。親思いの気持ちが伝わるよい話であったが、運転手さんは後部座席の私の肩が小刻みに震えることに気づいただろうか?実は私は不謹慎ながら笑いをこらえるのに必死だったのである。もちろん運転手さんの話に笑う要因はない。むしろ深刻なお話であった。これで笑い出したりしたら私は極悪非道の人非人である。しかし私には笑うだけの十分な理由があった。もちろん、おじさんには何の罪もない。ないのだがしかし、このおじさんは一つだけ些細ないい間違いをしていたのである。

「うちのおふくろは胸にヘルスメーターを入れてましてねぇ。危なっかしくて電車にも乗せられやしない。」

ヘルスメーター!そりゃあ、危ないだろう。第一どうやって胸の中に入っているというのだ?しかも何のために?やっぱり体脂肪も測れるやつなんだろうか?

聞きたいことは山ほどあったのだが、引っ込み思案の私はやはり明るく応対していた。

「ああ、それは危ないですねえ。」

目的地にはすぐ着いたが、もう少し話を聞いていたかった。

◆琴棋書画

古来より文人の嗜みは琴棋書画といわれ、士君子たるもの、この四つの芸に精通していなくてはならないという。

琴とは楽器演奏ということで広義には音楽ということになろうか?

棋とは将棋、囲碁などというところから広くはボードゲームなどに相当するだろうか?

書はもちろん書道のこと、画は水墨画、南画などの絵画であろう。

こ、困った。何一つできるものがない。人よりたくさん飯が食えるとか、人よりたくさん睡眠時間をとるとか、人より長くトイレを我慢できるというのは芸にならないのだろうか?なるわけないだろう!当たり前である。相手は君子だ。

四芸いずれも苦手ではあるが、特に書!

実は昔こういうことがあった。学生時代、書道の時間である。1時間の間、課題の文字をいくつも書き、最期に一番出来のいいものを提出するということであった。その日、私は張り切って作品を書きまくり、自分としてはまずまずのものが2つ出来上がった。私のすぐ後ろの席にいたのが東條君というクラスで一番字のうまい男。授業の終わり近くになって私は提出作品を決めかねていた。久々の会心作、どちらも甲乙つけがたいほどの出来である。やれば出来るじゃん、俺って結構すごいかも。しかし、どっちを提出したものか?そうだ、東條に選んでもらおう。私は自分の作品を両手に一つずつ持ち、後ろを振り向いた。

「おい、東條、この二つのうち、どっちがいいかな?」

「お前、まじめに書けよ。」

君子への道はこのとき永久に閉ざされたのかもしれない。

◆けじめ

社会人として信用できない人間とは仕事をするものではない。まして正確な現状認識のできない人間のワンマン体制では先は見えている。今年いっぱい(正確には2004年1月10日いっぱい)でやっと、うっとうしい場から解放されることになった。過去十年間、義理で手助けをしてやっていたが、もうこれで十分すぎるくらいであろう。チャラチャラした占いオタクたちに飯の種を提供してやるのも、もう飽きた。今後、私の専門講義は玄学舎のみで行われることとなる。(ま、カルチャーだとか単発講演などは依頼によりお引き受けするが)玄学舎というのは私の勝手な組織であるから今までのようなオープンスクールとは違い誰でも受け入れるわけではない。いや、何も特別なことを要求しようというわけではない。「まともな人間であること。」これだけだ。人は芸を自分で勝手に選ぶつもりでいるが、ナニ、芸のほうでも人を選ぶのである。望んで得られぬは身の不徳と思い知るべきであろう。

風水上での地運も第七運から第八運へと切り替わり、軽薄短小な時代も終わりを告げる。一般に第八運のイメ−ジは、革命、改革とされることが多いが、その前提としての蓄積、継承、伝統の意味を見逃してはならない。伝統派、古典派の復権である。

人生は、そんなに長くはない。バカの相手などするだけ時間の無駄である。話すに足る方々と有意義で実りある時間を重ねていきたいものである。

◆『スーパーネイチュア』

先日、必要があってライアル・ワトスンの『スーパーネイチュア』を読んだ。この本は確か中3か高1ぐらいのときに、熱心に読みふけったはずで各ページに残ったしみが当時の真剣さを匂わせる。

で、このときの探索の主題はアディのハーモニクスであった。よく類書では、インド占星学のマイクロゾディアック(ヴァルガ)にヒントを得て、あるいはピタゴラスの数霊理論に基づいてアディが考案したと書かれているが、私の記憶では確かそういう理論が出来上がる前に生データの中からハーモの原型を発見するくだりが、この『スーパーネイチュア』に書かれていたような気がしたのである。そこで本棚から引っ張り出して読む。第二章「人間と宇宙」の中の「占星術」という項の77ページ、あった。結果だけ要約すれば若い小児麻痺患者の生年月日を調べると黄道360度中に均等に出現するのではなく、3度ごとに1つのピークを作っていたのだという。つまり3度ごとに生まれる子供は他のときに生まれる子供よりも37%多く小児麻痺にかかるのだという。私はこの一次データを確認していないので伝聞形でしかいえないが、つまりはそういうことだ。現在のハーモの言い方で言えばHN120とでもいうのであろうか。

ライアル・ワトスンは、この本の中で驚くべき面白い話を豊富に載せてくれているが、そのニュース・ソースの点では、やや(かなりかな?)あやしいので、上記の話も一応話半分くらいで聞いておいたほうがいいかも知れない。たとえば、以下の引用。

「地殻の破砕構造の真上に住んでいる日本人は、この理由からいつも金魚を飼っている。この魚がひどく興奮して泳ぎ始める時、魚の飼い主は急いで戸外に飛び出し、倒壊する石造建造物の下敷きになるのを免れられるのだ。」

日本人である私は、ウ〜ムと首をひねらざるを得ない。あるいはもっと有名なのは「百匹目の猿現象」だ。あえて、その顛末は書かないが未だに、この話を信じ込んでいる人も多くいる。この話をネタに本書いちゃった某有名あっち系コンサルのオジさんもいるし。(他人事ながらどうやって収拾つける気なんでしょうか?)ワトスンも罪なことするねえって感じ。

◆弓曳童子

学研の名物雑誌「科学」と「学習」、後存知の方も多いはずです。私も子供のころ「科学」の付録が大好きでした。その大人版である「大人の科学」こちらは雑誌ではなくかつての付録のみに当たる手作り科学キットです。(ちなみに雑誌は雑誌で「大人の科学マガジン」というのがあります。)

で、なんと!11月18日に「シリーズ第10弾 弓曳童子」が出るという!

すっげえ〜!すっげえ〜!すっげえ〜!何度でもいいたいくらいうれしいのです。

実は私、シリーズ第8弾 からくり人形はすでに購入済み、しっかり組み立ても終わりまして動作可能。茶運び坊主の格好をしていて手に持ったお盆の上に茶碗を載せるとゼンマイ動力で前進を始め、一定の距離でストップ、人間が茶碗を取り上げてお茶を飲み、もう一度お盆に茶碗をおくとUターンして空の茶碗を持って帰ってくるというからくり人形なのです。すばらしき江戸時代の和科学かな!しっか〜し、残念なことにネジで微妙な調整をしなくてはならない部分があり、そこにどうも不具合があるらしく、私のチャボーズ君は、茶碗を乗せると前進するまではいいのですが、一定距離でストップするとおもむろにお盆を上に撥ね上げ、星一徹直伝の卓袱台返しをするという家庭内暴力ボウヤになってしまったのです。

で、今回の弓曳き童子、「からくり儀右衛門」こと田中久重の傑作を再現したもので、ゼンマイを巻いて動かすと、人形が矢立てから矢をとり、弓につがえ、的を射るという動作を繰り返すというのです。これを私が組み立てたら、今度はどんなすごい悪さをする人形になるのでしょうか?今からワクワクしています。絶対買うぞ〜!

◆非常識な客

世の中には、あきれかえる奴が多くいるものだ。ちょっと昔のことだが、鑑定客で、使う占術を指定してきた客がいた。まあ、そのこと自体は非常識とはいわないが、占術家としては、いささかムッとする点ではある。本来は占的により最もふさわしい占術を選ぶところから占術家の仕事は始まるのであり、かつて他の占い師にその占術で占ってもらったが納得がいかないのでことの真偽の検証をしたいとか、道場破りをしたいとか(笑)何か特別な事情がない限り、素人が余計な口出しするんじゃねえといいたくなるところである。まあ、それはいいとして、そのとき客の指定してきたのは紫微斗数であった。そこで、上記の通り何か特別な事情があるのかと思いその理由を尋ねようとしたのだが、それより先に客の発した一言で、なぜ紫微斗数なのかは明らかになった。

「僕、命盤は自分で書けるので、それを持っていきますから鑑定料を半額にしてください。」

あたしゃ椅子から転げ落ちそうになったよ。同じ鑑定料を値切るにしても、なんかもっとましな理由をつけて来いよ。あんまりバカバカしいので、かえって鑑定してやろうじゃないのという気になり鑑定しましたよ。半額で!

当日、悪びれもせずに鑑定を受けた問題児君、金が無いのかと思い話を聞けば、なんたらセミナーだとか、なんたらツアーには十分金を使っているらしい、なるほどなるほど、大地から遊離した無限上昇志向を持つあっち系の人だったんだ。それじゃあ、社会常識なんか要求するだけ無駄だな。いよっ!鉄面皮!恥知らず!非常識!これからも、いろんな方々の餌食になって景気回復に貢献してね。でも二度と私の前には面出さないでほしいな。

◆恐怖

先日、事務所で鑑定が終わり、さて帰ろうと思って荷物をしまっていたら自宅の鍵がないことに気がついた。幸い家に入れないことはないから、それ自体は問題ないのだが、お気に入りのキーホルダーのほうが心配だ。いつも家を出るときに必ず鞄のポケットに入れて持って出るのだし、この日も出掛けに鞄に入れた記憶がある。ということは、どこか途中で落としたか、あるいは財布と間違えてすられたかなどと焦って、この事務所に来る前に立ち寄った学校に電話を入れて控え室や入り口などを調べてもらう。しかし、無いという。このとき焦っていた気持ちがふと緩み平常心に戻った。

「何やってんだ、お前、失物だろ、易者なんだから易を立てろよ。」

自分で自分を叱りつける。とっさにそう思えなかった自分を恥じながら、気を取り直して易を立てる。坎之泰(坤震坤兌乾巽)卦を見てほっと安心する。なんだ家に置き忘れか。いきなりリラックス。(もちろん、その通り、家にありました。占いですもの、当たって当たり前。)しかし、しばらくして新しい恐怖が私を襲う。じゃあ、あの出掛けのくっきりとした記憶はなんだったんだ〜?アルツかな〜?俺?

◆先駆者

早いもので11月である。癸未歳の癸亥月か〜、水気が強いな〜などとぼんやり考えていて、ふとワンサイクル前に考えが及び、そっか、昭和18年11月になるんだよね。戦時中だったんだ、大変な時代だったね〜、うんうん、などともっともらしい言葉が頭の中を駆け巡る中、何か違う言葉が頭の隅っこで自己主張している。ん?この年月は何か記憶にひっかかるものがあったはずだな?なんだっけ?とまあ考えることしばし。そうだそうだ、仮にも占星術をやっているものなら忘れることなどゆるされず、知らなきゃモグリかイカサマ野郎ってな大先生の亡くなった年でした。それなのに忘れていた私は悪い子です。ごめんなさい。

大正期に一般向け占星書(いや、考星学の書というべきだな)を3冊も出し、アラン・レオとセファリエルを紹介し、多くの社会的予言を的中させた先生。いやあ「宿曜経の科学的基礎」には、ずいぶん教えられました。

先生が亡くなって後、日本の占星術界は確かに拡大し一般化しました。しかしそれは進歩発展だったのでしょうか?退化堕落だったのでしょうか?

26日には遠くからではありますが花を手向けようと思っております。

◆読書

先日、季刊『銀花』のバックナンバーを購入し、しばし読みふけっていた。背表紙に「柳宗悦 心眼の美」とあるのに魅かれたのである。私は美術方面は(も、だな?)とんと疎いので柳先生のことも、なんかすごい人程度の認識しかもっていなかった。せいぜいが教科書的知識として民芸運動というものを展開していたらしいということくらいで、そもそも民芸運動ってナニ?というレベルである。

それにしても『銀花』の巻頭グラビアページは、いつ見ても美しい。それについで「工藝の美」と題する柳先生の名文に魅了された。美しい文章である。「美の法の詩書」といわれるのが、よ〜くわかった。

神聖冒すべからざるものなんて、この世にあるのかい?という根本的懐疑、仮にそんなものがあったとして俺の日常に何の関係もないだろうという予感(だから私は軽々しく神だ仏だ高次元だなどと言うやからとは話もしたくないのだが)、この、下品な私が言うとすぐ過激になってしまう問題提起に対して、「美術は理想に迫れば迫るほど美しく、工芸は現実に交われば交わるほど美しい。」とサラリとおっしゃる。術の世界に身を置く(持ち崩すが正解か?)者としては、書を通じて久々によい稽古をつけていただいたような気がする。

◆鎗田先生のこと

身弱帯印の命は、人間関係に恵まれるというが、なるほど、私はよき先達、畏友に恵まれている。梅花心易の名人、鎗田宗准先生のことを知ったのは、『パワースペース』が先であったか、『秘伝梅花心易入門』が先であったか、今となっては不明であるが、とにかく御本人ではなく著作を先に存じ上げていた。つまりは一読者である。後に鎗田先生がHPを立ち上げられた際に100番であったか?キリ番ゲット記念と思い、メールを差し上げたのが直接ご親交をいただくきっかけであったと記憶している。直接お会いして、いくつか予想外の点があったのだが(いや、オヤジギャグの連発はやめなさいとか、そういうことはおいといて(笑))もっと線の細い神経質な人物を勝手にイメージしていたのだが、実際の鎗田先生は緻密で繊細な神経を内に秘めながらも、実に豪放磊落、大人の風格溢るる漢でありました。世に口舌の徒は(私を代表として)数多ありといえども、「じゃあ、やってみせてよ。」というと、なんだかんだと理由をつけてその実力(?笑)のほどを見せてくれないその道の権威とやらが多い中で、鎗田先生は徹底した実践の人であり、出し惜しみをせず、いとも簡単に超絶技を見せてくださる。それは占術の分野でも勿論であるが、同様に武術の面でもである。いや、むしろ自分の身体で実感させてもらえるだけ私のような素人にはわかりやすいかもしれない。その辺のイカサマパフォーマンス武道なんぞにだまされている連中は、一度見学させていただいてカルチャーショックを受けるべきであろう。

◆選挙が近いらしい

久しぶりに自宅で仕事をしていると、電話が鳴った。出てみると近所に住むという未知のお方。町内会の連絡でもあるのかと思い愛想良く出るが、今度の選挙という台詞にいきなり声のトーンを落とし不機嫌になる。案の定、スコバカ党に一票入れてくださいとの乞食おねだり電話であった。「断固拒絶いたします。」といってたたききったが、もっとキツイ言葉が何故とっさに出なかったかと、しばし反省。それにしても、いつも思うのだが、一票の大事さを説いて選挙に来いというのなら、マイナスの一票というのを認めてはもらえないだろうか?特に積極的に推したいヤツなんざ、いやしないのだが、こいつだけは絶対に当選させてはならないというヤツならいる。マイナス票が基準以上に達したヤツは、組織票でいくらプラス票を重ねようが当選させてはならないというルールでも作ってくれれば喜んで選挙に行くのだが、どうだろう?

◆殺人高校生

また、幼児虐待のニュースである。どうせ日本は被害者につらく加害者に優しい社会だからグダグダと時間かけて被害者(今回は母親も加害者側だが)の神経を散々逆なでしたうえで、どうでもいいような量刑が決定するのだろう。特に今回の事件がどうこう言うつもりもない。

過失致死という言葉がある。過失で他者の生命を奪ってもその責任が問われるというのに、犯行時に心神喪失状態だったから責任能力はないとか、未成年だから将来性を考慮してとか、勝手なことをぬかしているが、どれだけもっともらしい屁理屈をこねたって被害者は殺され損であるという事実は曲げられまい。

何で日本では、まともな人間がまともな生活を送れないのだろうか?

◆夜中の奇行

最近、ワープロを打っていて深夜に及ぶ(というより、ほとんど明け方ですな)ことが多く、さすがに座り姿勢にも疲れて、さて気分転換でもということで、日本刀の素振りをしている。本当は庭に出たり近くの公園でやれば、もっと完全な気分転換になるのだが夜中に怪しいオヤジがドス持って暴れていたら即警察に通報されるだろうということで室内でこっそりやっている。もちろん、居合い練習用の模造刀で刃はついていない。鎗田先生から軽く手ほどきを受けるという幸運に恵まれたもの、いかんせん本人がセンスのないド素人だからいい加減なものである。ただ、なるほど腕(技)さえあれば刃などなくとも物は切れるのだという貴重な体験をさせていただき、先ずは力(蛮力)を抜ききることと御教示を受け、無駄な回り道は一切せずに進んでいけそうである。

「ヘナチョコは ヘナチョコなりの 汗をかき」なんてね。